エピソード III〜 静子

13.運命の日

日曜日の夜、静子が一人で夕食を済ませ、シャワーも浴びてバスローブを羽織ってくつろいでいるとコージが帰ってきました。 やっぱりあの女の匂いがします。

「お帰りなさい、コージ。疲れてるみたいね」

「ああ、酷いもんだ。折角の休暇を3日も潰したのに。あの会社は駄目かもしれない」

珍しくコージはスーツケースを開けずに玄関に置いたままでリビングのソファーに座り込みます。

「一体どうしたの?あんなにしょっちゅうボストンまで行ってたのに」

「静子、覚えてるかな、ジェニファーっていう副社長。一度オフィスに来ただろ。マーケティングの 責任者なんだ。彼女自身は凄く優秀なんだけど、その部下というか右腕の女がとんでもない食わせ者だということが分かったんだ。ジェニファーがレズだっていうのは話したかな 」

突然の思いがけない言葉に静子はびっくりしてコージを見詰めました。

「そんなに驚くことは無いだろう、レズビアンだからって」

「そうじゃなくって、彼女レズには見えなかったから」

「まあ、見かけでは分からないからね。それはいいんだけど、 ジェニファーの右腕っていうのが実は恋人だったんだ。 ところがそのレズの恋人が全く駄目。ところがジェニファーはそれが分からないのか、恋人だから厳しく言えないのか、とにかくとんでもないことになった」

「何か問題を起こしたの?」

「マーケティングのデータが全く信用できないことが分かった」

「いつ?」

「水曜日に怪しい事が分かって、だから感謝祭というのに木曜日から僕はボストンへ行って、徹底的に元データまで調べたんだよ。途中からはその恋人は外してジェニファーに全部調べなおさせた」

「それで?」

「マーケットサイズを一桁読み違ってた」

「そんな!」

「もう製造の計画も走ってる。もちろん価格が決ってるからコストも決ってる。この段階で売上は10分の1にしかなりませんなんて言えるか?」

「投資家はみんな手を引いちゃうわね」

「次のラウンドはもう無いな」

「コージ」

「ああ、御免よ、帰ってくるなりつまらない話で。でもこんな不愉快な思いをしたのは久しぶりだからつい愚痴ってしまった。ああ、まだジェニファーの臭いがする」

コージはシャツの袖を鼻に近づけるとクンクンと臭いを嗅ぎます。

「静子、臭わないか、あの女の香水。変わったのを付けてるんだ、僕は苦手だなあの臭いは。それなのに三日間も狭い部屋であいつと鼻を突き合わせてずっと書類とにらめっこだ。身体中にあの女の臭いが染み付いてる気がする。あー、シャワーを浴びてくるよ」

コージがバスルームに消えるのを静子は呆然と見送っていました。

* * *

『浮気相手じゃなかったんだ。ジェニファーがレズだったなんて』

静子はコージを疑ってたことを申し訳なく思いながら、機内で夕食を済ませて来たコージの為に、彼の好きなハヴァルティ のチーズを切って皿に盛り付けました。ちょっと遅いけどキャバルネのボトルを開けて感謝祭のお祝いです。

シャワーを浴びてきたコージはすっきりしたみたいで、ワインとチーズを盛んに口に運びながら静子が旧友と会った話しに聞き入っています。

「それでね、土曜日にはダニエルに会ったの。あなたのこと凄く尊敬してたわ」

静子がそう言うとコージは少し驚いたような顔をしました。

「ダニエルってダニエル・チャンかい?」

「そうよ」

「彼には気をつけたほうがいい」

「どういう事?」

「中々のプレイボーイっていう噂だ」

「そうは見えなかったけど」

「本当のプレイボーイっていうのは、そうは見えないもんだよ。だから女性は油断するんだ。あまり会わないほうがいいよ、静子は魅力的だから狙われるぞ」

「ありがとう。気をつけるわ」

まるであの夜の会話を聞いていたかのようなコージの忠告に静子は驚き、素直に頷きました。

ワインに心地良く酔ったコージは素肌の上にバスローブだけを羽織っていた静子を抱きしめ、「愛してるよ」と囁くとそのままベルトをほどきだしました。あっという間に全裸にされた静子はソファーの上でコージを受け入れ、約1週間ぶりのオーガズムを味わったのです。

* * *

月曜、火曜は珍しく二人とも出張がなく、静子とコージは揃って出社しました。といっても、いつ急な出張が入らないとも限らないので、それぞれ自分の車で出掛けました。コージはほぼ一日中 ドアを締め切ってボストンのジェニファーと電話でやり合っているようです。

水曜日になるともう12月です。この日はコージは日帰りでシリコンバレーへ出かけ、翌木曜日は逆に静子がシリコンバレーへ出張です。金曜日は二人ともオフィスで仕事をする予定でしたが、コージは昼前からサンタバーバラの投資先へ急用が出来ました。

「3時までに帰ってくるから待ってて。例のAG、アプライド・ジーンズ社のクリスマスパーティだよ、覚えてた?」

「あっ、そうだったわね」

「忘れてただろ?」

「まあね。でもPDAには入ってるから大丈夫よ、アラームが鳴るわ」

「これAGのエグセクティブ・サマリー(会社概要)だから暇があったら目を通しておいて。確か開発の責任者はタカシマっていう日本人だよ」

静子に数ページの書類を渡すとコージは出かけて行きました。

日本人の開発責任者というコージの言葉に静子は少し興味を持ち、経営者一覧の頁を開きました。

『ディレクター・オブ・リサーチ マイク・タカシマ。96年にO大学で医学博士。その後UCLAでポストドクか。私より一つか二つ上のがり勉タイプ かな。恋人にはなりそうにはないわね』

静子は書類を脇に置くと、昨日会ってきたシリコンバレーの会社に電話をしようと受話器を取りました。

* * *

夕方から出かけようとする日に限って、仕事が山のように舞い込んできて、静子はランチに行く時間もありませんでした。秘書のリンダが気を利かせて買ってきてくれたサンドイッチを頬張りながらパソコンの画面からは一時も目を離しませんでした。

コージからちょっと遅れると電話があり、結局コージが戻ったのは3時半を過ぎていました。直ぐにコージの車でコースト・キャピタルのゴードンのオフィスへ行き、そこでスカイホーク・パートナーズのロバートとも合流して4人がAGへ到着したのは午後4時を少し過ぎていました。

「なかなか立派な建物だろ」

ゴードンに案内されて静子たちがAGのロビーに入って行くと、 あちこちで研究者風の若い男女が固まって祝杯を上げています。その中の一人が軽く手を上げて合図するとこちらへ近づいてきます。おとなしそうなアジア系の男性です。ベージュのカッターシャツに紺色の綿パンを穿き、縁の太いメガネを掛け、長い髪を後で束ねています。中国系?それも韓国系のアメリカ人でしょうか?

「ようこそ、ゴードン!」

「やあ、マイク、久しぶり。元気そうだね」

「お陰さまで、忙しくて感謝祭休暇もありませんでした」

『ああ、これがマイクなの。日本人には見えないわね』

静子がマイクの品定めをしている間にゴードンが一緒に来た人たちを順に紹介し、最後に静子の方を向くと、「そしてこちらは奥様のミセス・トガワ」と言いました。

マイクは紹介された相手と順に握手をしていき、最後に静子の方を向いた時に、静子は日本語で尋ねました。

「日本の方ね?」

マイクは突然日本語で話しかけられて驚いたようでしたが、「ええ、そうです。始めまして、タカシマです、マイク・タカシマ」と答えました。

「私はシズコ。よろしくね!」と言いながら静子が手を差し出すとマイクも右手を差し出しましたが、二人の手が触れた瞬間、 マイクの身体がビクッと震えたような気がして静子は「アッ」と小さく叫びました。

「あっ、失礼」とマイクが慌てて手を離します。

「大丈夫?」

静子が尋ねると、「ええ、大丈夫です。静電気かな?まあ、とにかく少しですが御馳走もありますのでゆっくりしていってください」 とマイクはテーブルに並んだ料理や飲み物を指差しました。

「じゃあ先にジムに皆を紹介してくるよ」

ゴードンはそう言うと静子達を連れて奥へと進みました。

静子はマイク・タカシマという男性が想像とはかなり違っていたので少し興味を惹かれました。

『少なくともがり勉タイプではなさそうね。あんまり男っぽくないし、マーロンに似た雰囲気だわ』

AGの中心人物であるジムとの挨拶を早々に済ませ、マイクともう少し話をしようと思って静子がロビーに戻って探していると、長身のブロンド美人がマイク を抱きしめています。軽くハグしているようにも見えますが、静子は二人が特別の関係であることを見抜きました。

『彼女がいるのね』

去って行くブロンド美人をマイクがぼんやり眺めているので、静子は後から近づいて「タカシマさん?」と日本語で呼びました。

「ああ、トガワさん」

マイクが驚いたように振り返ります。

「シズコでいいのよ。あなたはマイクだったわね。さっきの人は彼女?」

「え、ええ、いえ、正確には元彼女」

「とても魅力的な人ね」

「ええ、それに凄く優秀なんです。今の調子なら3年で学位を取りそうなんです」

「それは凄いわ。ところでマイク。AGの研究のことを少し教えて下さらない?私もベンチャー・キャピタリストなんだけど、ライフサイエンス関係はあまり経験がないの」

「もちろん、いいですよ、シズコ・・・さん?何だか呼びにくいですね。やっぱりトガワさんと呼んでもいいですか?あるいはトガワ夫人かな?

「じゃあ、シズコ夫人って呼べば?」

「ああ、それがいいですね、シズコ夫人」

さすがに研究開発の責任者だけあってマイクはAG社のテクノロジーについてとても分かりやすく説明をし、静子はマイクの目を見つめながら時間の経つのも忘れて説明に聞き入りました。

『なかなかいい雰囲気ね、このマイクっていう男性は』

静子は次第にマイクに惹かれていく自分に気付き、心の中でこっそり微笑みました。

ところが束の間の楽しい会話はコージが加わったことで終わりました。テクノロジーの話に付いて行けないコージはビジネスの話に話題を移し、今度はマイクが答えに窮する事が多くなり、そんな時は静子が アイデアを出して助けてあげたりし たのでした。

ふと静子が時計を見ると5時を過ぎています。コージは夜の便で再びボストンに行かないといけないのです。静子が目配せするとコージも気が付いたようです。

「とても参考になったよ。AGのことが益々気に入った。ありがとう、マイク。もっと色々話をしたいのだが、次の約束があるので残念だが私達はそろそろ行かないと」

「ああ、またいつでも声を掛けて下さい」

マイクはビジネスの話を終えることができた所為か、ホッとした顔をしています。

「またお会いしましょう、マイク」

静子が微笑みながらそう言うと、まるでマイクに見せ付けるようにコージが静子の肩を抱き、ゴードン達に一言二言挨拶すると二人はAGの建物から出ました。

「静子、今日は付き合ってくれてありがとう。ゴードンがぜひ君も連れて来いって煩かったんだ」

「どういたしまして。私も楽しかったわ、勉強にもなったし」

「それなら良かった。バイオ系も面白そうだろ?」

「そうね。私もこれから勉強しようかしら。あのマイクも見どころありそうだし」

「そうだろ。UCLAでボスのジムの右腕だったらしいよ」

「そんな風には見えないわね」

「どういう意味?」

「そんなにバリバリ仕事をするタイプ、或いはがり勉タイプじゃないみたい」

「人は見かけにはよらないよ。彼も徹夜なんかしょっちゅうらしいから」

「へぇー、そうなの」

「悪いけど、家に戻って荷物を取ったら空港まで送ってくれないか?今の時間、駐車場が大変なんだ」

「もちろん、いいわよ」

* * *

コージをロサンゼルス国際空港まで送った静子はその足で岡田夫人宅へ寄りました。もちろん、さっき会ったマイク・タカシマのことを話すためです。

「随分気に入ったみたいね、静子さん?」

静子が話し終わると、岡田夫人がニッコリと微笑みました。

「さあ、気に入ったのかどうかは」

「あなたの顔を見てれば分かるわよ。嬉しくて仕方が無いっていう顔よ」

「そうですか?」

「それにコージさんの投資先の開発責任者っていうのがいいわね。浮気相手としては最高じゃない?」

「でもまだ。彼の気持ちも分からないし。あっそうだ、元彼女も見かけました。未だ別れて間が無さそうでした」

「彼女と別れたばかりとは好都合ね。 大人しそうな人みたいだし、あなたが声をかければ絶対大丈夫よ。恋の奴隷にしちゃいなさいよ」

「恋の奴隷?」

「そうよ、あなたが主人にならなくちゃ駄目よ。そしてあなたが欲しい時にだけ相手をさせるの。だから彼はあなたの恋の奴隷」

岡田夫人にそう言われたものの静子は果たしてマイクがそういう対象になるのかどうか未だピンと来ませんでした。どういう理由で彼女と別れたのかは分かりませんが、他に女友達が沢山いる風でも無かったし、静子が誘えば食事くらいにはつきあってくれるでしょうが、それ以上の関係になるものかどうか。外見はマーロンと似た雰囲気もありますが、中身は随分違うような気がします。しかも静子はマイクの会社の投資家の一人であるコージの妻なのです。開発責任者であるマイクがそんな軽はずみなことをするでしょうか。

それに怪しいと思っていたジェニファーがレズだと分かったことも静子が今ひとつ積極的になれない理由でした。コージが休日返上で仕事をしているのに、彼の投資先の開発責任者と浮気するなんて。

ベッドに入ってからも静子はマイクのことを考えていましたが、いつかの妄想の中に出てきた男性とはマイクはなかなか重なりませんでした。


inserted by FC2 system