エピソード III〜 静子

12.葛藤

ハローウィンから1ヶ月後の11月25日の木曜日は感謝祭の休日で、多くの人は週末にかけて休暇を取るので普通の会社は半ば休業状態ですが、静子やコージが相手にしているベンチャー企業には休暇はありません。その結果としてコージも静子も感謝祭休暇とは無縁なのです。しかも今年はコージがボストンに出張することになったので、静子は一人で感謝祭 の休日を過ごすことになったのですが、幸いなことに岡田夫人もご主人が日本へ出張になったらしく、静子を夕食に呼んで下さったのです。

「そうなんです、またボストン。きっと彼女と休暇を過ごしてるんだわ」

「心当たりはあるの?」

岡田夫人が七面鳥を小さく切りながら尋ねます。

「多分、最近投資した会社の副社長じゃないかと。なかなかの美人でしたもの」

キャバルネを飲みながら静子が答えます。

「静子さんも会ったことあるの?」

「ええ、一度だけ、オフィスに彼女が来たときに」

「それで、その彼女の匂いがしたのね、この前は」

「特徴的な香水だったから覚えていたんです」

「早くあなたも彼氏か彼女を見つけないとね」

「ええ、そうですわね」

今日ばかりは静子も本気でそうしようかと思いました。そしてコージとのセックスの時に幻想のようにケイトが、そして若い男性と女性が現われたことを話しました。

「知ってる人はケイトだけだったのね?」

「そうなんです」

マーロンのことは静子は言いませんでした。

「そして知らないアジア系の男と、日本語で叫ぶ魔女が現われたのね」

「でも魔女の顔はメークの所為でよく分かりませんでした」

「一番考えやすいのはあなたの願望だという事よね。ケイトのことは理性では我慢しているけど身体は欲しているのは間違いないから。同じようにアジア系の若い男性、そして日本語を話す若い女性を求めているのよ、きっと」

「二人も?」

「だってあなたはバイ・セクシャルでしょ?」

岡田夫人にずばりバイだと言われると静子は戸惑ってしまいますが、コージとのセックスでも感じるし、ケイトととも素晴らしい一夜を過ごしたわけですから、違うとはいえません。

「そうなのですか?」

「そうよ。だから恋人も二人必要なわけ。さあ、大変ね、見つけるのが。でも私も探してあげるし、マーロンにも聞いてみるわね」

岡田夫人はしばらく休めていた両手を動かして七面鳥をせっせと口に運びます。

「なかなかいけるでしょ、このレシピー」

「ええ、とっても美味しい。でもとても食べきれないですね」

「明日は金曜日でしょ。マーロンが来るから、友達を何人か連れて。あなたもどう?アジア系の男の子も来るかもしれないわよ、後で聞いておいてあげるけど」

「いえ、明日は仕事なので」

「でも夜は?」

「午後からサンフランシスコへ行かないといけないんです」

「それは残念ね」

* * *

金曜日の朝一番に静子はMBA時代の何人かの友達にメールをして夕食に誘いました。 当時何度かデートしたうちの一人であるジムもちょうどシリコンバレーにいるのでもちろん声をかけました。彼は白人ですが、その他の親しかった中国系や韓国系 のクラスメートにも連絡を取りました。

急な誘いだったにも拘わらず、ジム、ライアン、そしてクリスの3人が都合を付けてくれました。インド人のライアンとは時々仕事の関係で顔を合わ しますが、ジムと中国系アメリカ人のクリスとは卒業以来です。特にクリスは当時は子供っぽかったのですが、7年も経てば雰囲気も変わってるかもしれません。静子はもしかしてという期待に胸を膨らませながら午後の仕事をこなしました。

待ち合わせのレストランに入ると、精悍で素敵な男性が手を振っています。

「シズコー!」

「ええっ、クリス?」

髪型を変えた所為もあるでしょうが、何よりも自信に満ちた顔つきが昔とは全然違います。クリスは立ち上がると静子をハグしてくれ、頬にキッスまでしてくれました。

「雰囲気変わったわね。凄くハンサムになったわよ」

「ありがとう、シズコも一層美しくなったね。コージと二人で次々にベンチャーを軌道に乗せているって、よく話を聞くよ」

「そお?ありがとう。クリスは結婚したの?」

その質問を待ってたかのようにクリスはBlackberry を取り出すと、奥さんと娘さんの写真を見せてくれます。同じ中国系のモデルのような奥さんと奥さんに似たとても可愛い女の子です。綺麗ね、可愛いね、と言いながら写真を見ていると、ジムの顔をした太った男が入ってきました。

「やあ、シズコ。久しぶりだね」

「まあ、ジム。貫禄が着いたわね。もう社長さんなの?」

「ああ、一応ね。上場はまだまだ先だけど」

ライアンも直ぐに現われて、静子たち4人は近況報告や昔の思い出話に、時間の経つのも忘れる程でした。

しかし午後9時を過ぎると、 クリスが、「もうこんな時間だ、帰らなきゃ 」と言ったのを皮切りに、ジムもライアンも家族が待ってるからと席を立とうとするので、静子も「私もコージが待ってるから」と嘘を付き、同窓会はお開きになりました。

車のところまで3人が送ってくれて、 「今日は声をかけてくれてありがとう、シズコ」、「本当に楽しかったよ、シズコ」、「また会おうね、シズコ」と 順番にハグしてくれました。静子は車に乗り込んでエンジンをスタートさせると窓を開けて、「今日はありがとう、みんな。お休みなさい!」と精一杯気丈に微笑みましたが、車を動かして3人が視界から消えた途端に目が潤んでしまいました。

パロアルトのコンドは真っ暗で、冷蔵庫には缶ビールが2本残っているだけでした。黒のドナ・キャランのジャケットとスカート、それに茶色の光沢のドレスシャツを脱いでクローゼットに掛けると、静子の裸身を覆うのはもしかしてと期待して身に着けた、同じ黒のレースの刺繍の入ったブラとTバックだけです。しばらく鏡を見詰めていた静子でしたが、大きく溜め息を付くと鏡の前に座ってメークを落とし、下着を脱いでシャワールームに向かいました。

熱いシャワーは少しだけ静子の気持ちを慰めてくれましたが、バスタオルを身体に巻きつけて髪の毛を乾かしてから、鏡に向かってナイトクリームを付けていると再び涙が零れてきます。

『一体私は何をしてるのかしら?もう今日は早く寝ましょう』

しかし静子が寝室に戻ると、目の前のベッドの上に、コージといつかのブロンド女が絡み合う姿がありありと現われるではありませんか。

『ああ、ここでは寝られないわ』

静子はクローゼットからシーツと毛布を取り出すとリビングのソファーベッドで寝ることにしました。バスタオルを落として全裸のままでキッチンへ行き、缶ビールをゴクンゴクンと飲み干し、そのままベッドに潜り込みました。

しかし部屋を真っ暗にしてシーツを頭から被ってもなかなか寝られません。目を瞑るとマーロンやアジア系の男や日本語を叫ぶ魔女が次々に現われては静子を誘惑します。そしていつしか静子は自分の指で自らの身体を愛撫していたのです。

* * *

良く眠れないまま朝を迎えた静子は、しばらくの間はシーツにくるまってぼんやりしていましたが、ふと思い立って昔ケイトと通った室内プールへ行きました。クローゼットの奥に一着だけ残っていた競泳用の水着も身体にピタリとフィットし、泳いでいると目の前の水面に突然ケイトが顔を出しそうな気にもなりましたが、残念ながらそんな奇跡は起こらず、適度な疲労感だけを手に入れた静子は途中でサンドイッチを買ってコンドに戻ったのです。

部屋に入ったとたんに携帯が鳴りました。ダニエルです。昨日は無理だったけど今日の夕方シカゴから帰ってくるので土曜日なら良いよと言ってた韓国系アメリカ人です。彼の名前が携帯に表示された途端、自分でもおかしい程に気分が高揚し、静子は慌てて受信のボタンを押しました。 懐かしいダニエルの声が受話器から響き、7時にスタンフォード大学の近くのレストランで待ち合わせることにしました。

昨日は仕事だったので黒のジャケットと黒のスカートいう格好でしたが今日は休日なので紫色のニットのミニドレスに黒のタイツを合わせ、上には真っ白の皮の丈の短いジャケットを羽織ります。そして約束の時間まで、静子はサンフランシスコをブラブラしました。一人ぼっちなのは寂しいですが、夜にはダニエルと会えると思うと少し心が弾みました。

遅れては行けないと早めにサンフランシスコを出たら意外にフリーウエイ101号線は空いていて、約束の時間の30分ほど前にレストランにつきました。バーでシャルドネを飲みながら待っていると、カーキ色のパンツに黒のドレスシャツを着たダニエルが入ってきました。数年前に会ったときよりも一段と素敵な男性になっています。

「ダニエル!」

喜んでスツールから降りるとダニエルがハグしてくれ、頬にキッスもしてくれました。

「シズコ、久しぶり。一段と綺麗になったね」

「あなたも素敵よ」

二人はテーブルに場所を変え、懐かしい話に時を忘れて語り合いました。ダニエルは何度もコージのことを凄いと褒め、尊敬していると言い、コージと一緒に仕事ができる静子が羨ましいと言いました。

「ダニエルは結婚は未だなの?」

薬指に指輪が無いことに気付いた静子が尋ねます。

「機会が無くって。友達からはより好みし過ぎって言われるんだけど、運命の人にはなかなか出会わないんだ」

「ガールフレンドも?」

「そう呼べる人は今はいないな」

「もてそうなのに」

「そんなことないよ。実はね・・・」

「何?」

「MBAの頃はシズコにアタックしようかと思ってたんだ」

ダニエルの突然の告白に静子は驚きました。

「まさか!」

「本当だよ。でもシズコはジムと付き合ってただろう」

「付き合うって、たまに映画や食事に行った程度よ」

「でもジムを押し退ける勇気も無かったし、そのうちにコージが現われて、これじゃ勝負にならないと諦めたんだ

『今からでも遅くないわよ』

その言葉が喉まで出掛かりました。

実はコージが浮気をしていて、この週末もボストンで愛人と一緒なのだと告白すれば、ダニエルはきっと助けてくれる。

しかし結局はダニエルの話しに相槌を打つことしか出来ませんでした。

「今日はコージは仕事なの?」

「そうよ、休み無しみたい」

「でもパロアルトの家には帰ってくるんだろう?」

「・・・ええ、もちろん」

『どうして嘘を言ってしまうの、静子』

「いいな、僕は今夜も一人なんだ。だから夕食の相手がいて助かったよ、しかもシズコと食事できるなんて、今年の感謝祭はとてもラッキーだよ」

『ダニエルは一人なのよ。まだ間に合うわ、静子』

「・・・」

ダニエルを見詰めて静子が黙っていると、「ああ、御免、御免、まるで誘惑してるみたいだったね。御免よ。でもコージの奥さんには絶対手を出さないよ。そんなことしたらこの業界から追放されちゃうよ」

ダニエルは快活に笑い、静子もつられてニッコリと微笑みました。

「そろそろ帰らなくていいの?コージは何時に戻るの?」

「まだ大丈夫よ」

「じゃあ、ちょっとだけバーに寄ってから帰らない?」

葛藤を続ける静子の心が分かったのか、ダニエルのこれ以上は無い誘いに静子は少し戸惑う振りをしながら「ええ」と答え、二人はそれぞれの車で静子のコンドの近くのバーへと場所を移しました。

「いい雰囲気ね」

静かなブルースが流れている落ち着いたバーには客は静子たちを含めても5、6人。みんな小声でぼそぼそと話しています。二人はスコッチをロックで頼みました。

「ここは始めて?」

「ええ」

「静子の家には近すぎるものね。僕は時々ぶらっと寄るんだ。もしかして静子が来てないかなって」

「また冗談を言って」

「御免、御免。でも少しは本当に思ってたんだ。もしかして何年かぶりかでバッタリ会って・・・」

「それから?」

「それから、僕の妄想ではね・・・それはちょっとここでは言えないな」

「聞きたいわ」

言ってしまってから心臓がドキドキするのを静子は感じました。

「本当に?」

「本当に」

「よーし、じゃあ話すよ。ああ、きっと酔ってるんだ。こんなに素敵な静子と一緒に飲めるんだから」

ダニエルはスコッチをグイッと飲み干すと話しはじめました。

「ある夜僕がぶらっと立ち寄ると、何と静子がカウンターに座ってるんだ。そう、感謝祭休暇の夜がいい今日みたいに。何年ぶりだろう。久しぶりに話が弾むんだけど何となく静子は元気が無くて、どうしたのって聞くとコージがずっと出張で一人ぼっちなのって君が答えて、それでしばらく一緒に飲んでいたら、曲がスローなダンスに変わって、踊ろうかって聞くと君はウンと言って立ち上がり、僕たちはしばらく、そう、そのあたりで踊るんだ。実は僕は踊れないんだけどね。あくまでも妄想だから」

「それで?」

静子はダニエルの方に少し身体を寄せます。

「それからね、ドライブに行こうって誘うと君もウンと言って、僕たちは店を出て僕の車で山の方へ行って、シリコンバレーの夜景が見えるところに車を止めて、そして・・・」

「そして?」

静子はじっとダニエルを見詰めます。

「そして僕たちはキッスをするんだ。あぁー、言っちゃった!僕、酔ってるね」

「素敵」

静子が囁くように言いました。

「そお?それは良かった。でもあくまでも僕の妄想だからね。コージには内緒にね。ああ、でも、もしばれたらどうしよう、静子を誘惑したなんて思われたら」

「ばれないわよ」

「絶対に、頼むよ。あっ、そろそろ帰らなくていいの?もし、コージがここへ来たら大変だよ」

「ここには来ないわ」

「あっ、そうなんだ。じゃあ、安心。でも、本当に帰らなくていいの?もう10時だよ」

『最後のチャンスよ、静子。実はコージは帰ってこないって言うのよ!』

静子はじっとダニエルを見詰めています。

あんな告白をしたばかりのダニエルは静子に見詰められて少し顔を赤らめます。

「緊張するな、そんな目で見詰められたら」

『言うのよ、静子。それでダニエルは全て分かってくれるわ』

しかし静子はニッコリ微笑むと、「そうね、そろそろ帰らないと」と言いました。

 

日曜日の午後、ハリウッドの家に戻った静子を待っていたのは洗濯物の山でした。それに静子のスーツケースの中にもここ数日の洗濯物が詰まっています。一度では収まりきらず、結局3回も洗濯機を回すことになりましたが、洗濯機が回る音を聞きながら静子は、どうしてダニエルに言えなかったのかしらと深いため息を付くのでした。

『私のことを好きだったとはっきり言ったし、今でも私を誘ってキッスまですることを想像してるのだから、きっとうまく行ったのに。でも、でも、もしコージに分かったら、ダニエルに迷惑が掛かるわね。だから私は踏みとどまった』

まるで昔の優等生時代に戻ったような理由を付けて自分の行動を正当化してみましたが 納得がいきません。別にいまさら納得してももう遅いのですが、静子は何か理由が欲しかったのです。

『そうだ、大事なことを忘れてたわ。私は浮気相手を探していたのよ。ダニエルとだったら本気になりそうだから止めたのよ』

おかしな屁理屈ですが、静子は何となく落ち着いた気分になりました。あんなコージですが、まだ静子は離婚しようとは考えてなかったのです。


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