エピソード III〜 静子

3.岡田夫人

岡田夫人と知り合ったのは静子たちがハリウッドに移ってきて間もない頃でした。リトルトーキョーの日本食スーパーで魚を選んでいるときに声を掛けられたのです。岡田夫人はご主人と一緒に服や小物の輸出をされていて、最近は事業が軌道に乗って社員も増えたので岡田夫人はほとんど仕事には手を出さずに、ボランティア活動を積極的にされているのです。少し年下の静子を妹のように可愛がって下さるので、静子もあれこれとよく相談に乗ってもらっていたのですが、そんな時には決まって自分の困った時のことも話して下さるので、岡田夫人と話したあとは静子はとても気持ちが落ち着くのです。

何度か呼び出し音が鳴ってから、「ハロー」という岡田夫人の声が聞こえました。

「ああ、岡田夫人。静子です」

「まあ、静子さん、どうかしたの?」

岡田夫人は静子の只ならぬ様子を直ぐに感じ取ったようです。

「今からお邪魔してもいいですか?」

「ええ、もちろんよ。でも大丈夫?一人で来れる?」

「ええ、大丈夫です。今、LAXなので30分位で」

「じゃあ、お待ちしてるわ。気をつけてね」

岡田夫人の声を聞くと少し気が落ち着いて、静子はフゥーと大きく溜め息を付きました。

『慌てて事故でも起こしたら大変。ゆっくり運転するのよ、静子』

岡田夫人のお家はサンタモニカのビーチの直ぐ傍にあって、静子は何度も行ったことがあるので、道順は頭に入っています。

家の前に車を止め、玄関のベルを押して待っているとドアが開きました。

「一体どうしたの、静子さん」

岡田夫人の顔を見た途端、静子はワーッと泣き出してしまい、岡田夫人に肩を抱かれるように家の中に入りました。そしてソファーに座ってひとしきり泣いてから静子は先ほど見たことをポツリポツリと話したのです。

岡田夫人はずっと静子の肩を抱きながら、時折優しい声で相槌を打って下さいました。そして静子が全て話し終えると、「可哀想な静子さん」と囁き、両腕で静子を強く抱きしめたのです。

全て話してしまうと静子は少し気持ちが落ち着いたような気がしました。岡田夫人は静子を抱いていた腕を緩めると立ち上がり、「お茶でも入れるわ。ああ、それよりもワインの方が良いわね 。もうこんな時間だし、夕食も召し上がっていって。簡単なものを用意したから。主人はちょうど日本へ行ってるのよ」とキッチンの方へ向かわれました。

「バスルームをお借りしていいですか?」

「もちろんよ」

鏡を見ると、泣いて流れた目の周りのメークを擦ったものだから、とても酷い顔です。

『こんな顔で飛行機に乗ってたのね』

静子は自分の顔のあまりの酷さに、少し噴き出しそうになりました。

丁寧にメークを直してバスルームを出ると、夕食の支度が出来ていました。

「簡単なもので御免なさいね。アサリのスパゲティは静子さんもお好きだったわね」

「ええ、大好きです。ありがとうございます、岡田夫人」

程よく冷えたシャルドネを注いでもらい、軽くグラスを合わせてからゴクンと飲むと、一層気持ちが落ち着き、食欲も出てきました。

「実はね、静子さん」

スパゲティをクルクルとフォークに巻きつけながら岡田夫人が話し始めました。

「私の主人も浮気したことがあるのよ」

静子はびっくりして岡田夫人の顔を見詰めます。

『あんなに仲の良いご夫妻なのに、ご主人が浮気だなんて』

「まあ、本当に。信じられません」

「本当よ。それも何度も」

岡田夫人の話は静子には信じられないものでした。最初は結婚して3年ほど経った頃、東海岸へ出かけたはずのご主人が信号で隣に止まったタクシーに乗っておられたのです。思わず声を掛けようとして隣に妙齢のご婦人がいる事に、しかも二人の関係が只ならぬものであることがひと目で分かったのです。岡田夫人はそのままタクシーの後を付け、ビバリーヒルズのホテルに二人が入ると、車をヴァレーに預けて岡田夫人もホテルに入ったのです。そしてフロントで鍵を一つだけ受け取り腕を組んでエレベータに乗った二人を呆然と見送った夫人は涙を堪えて車に戻ると必死の思いで家まで運転して帰り、一晩中泣き続けたのです。

翌日何食わぬ顔をして戻ったご主人に岡田夫人が全てを話すと、ご主人は驚き、取引先の女社長に誘われて仕方なくああなってしまったと、土下座をして謝り二度としないと誓ったそうです。

岡田夫人は離婚を考えたそうですが、親しい友人に思いとどまるように言われてご主人を許し、その後しばらくは元通りの中の良い夫婦に戻ったらしいのですが、1年ほど経った時に二度目の浮気が発覚したそうなのです。

「信じられません、あんなに岡田夫人を愛しておられるご主人が浮気をなさるなんて」

「静子さん、だからあれは浮気なのよ。病気みたいなものね。時々しないと駄目みたい。でも決して本気にはならないみたいよ。だから許すの。その代わり主人には高くつくのよ」

「どういうことですか?」

「浮気がバレる度に車を買わせるの」

「まあ」

「それでもするんだから仕方ないわ。そうだあなたも車を買ってもらいなさい」

「私はそんな。とても許す気になれません」

「まあ、今すぐはその気になれないでしょうね」

「もうずっと無理です」

「そんな性急に結論を出しては駄目。今日はとにかく忘れて美味しいワインを飲みましょう」

岡田夫人はそう言うと静子のグラスにシャルドネを並々と注いだのです。

しばらくは二人とも浮気の話はせず、最近見た映画や読んだ本の話をしながらスパゲティを食べ、快調なペースでワインを飲んでいると岡田夫人の家の電話がなりました。

「もしかして」

岡田夫人は立ち上がるとキッチンへと向かいました。

「やっぱり、コージさんね。聞いたわよ、静子さんから。浮気したんだって?」

岡田夫人はしばらくの間、「フンフン」と相槌を打ちながら聞いておられましたが、「じゃあ、明日」と言って電話を切りました。

「今夜は泊まっていきなさい。そして明日になってその気になれば帰ればいいわ。帰りたくなければずっと私の所に居ていいのよ、静子さん」

岡田夫人の言葉は、しばらくはコージの顔を見るのも嫌だと思っていた静子の気持ちを少し落ち着かせてくれました。

* * *

翌日は金曜日でしたがオフィスに行ってコージと会うのが嫌なので静子は体調が悪いといって仕事を休み、岡田夫人の家でくつろいでいました。お昼前にコージから電話が掛かってきて、昼休みに迎えに来るというのです。

「私は会いません」

「いいわよ、あなたは出てこなくても。私が話をしてあげるわ」

「話なんかして戴かなくても」

「静子さん、こういう時はね、冷静な第三者が話をしないと駄目なの」

昼過ぎにコージが来ましたが、静子は寝室に閉じこもって出て行きませんでした。コージは岡田夫人と30分ばかり話をして帰ったようです。

「もう大丈夫よ、コージさん諦めて帰ったから」

「どんな話を?」

「一杯言い訳をしていったわ。ファンドが資金不足で頼みに行った先の投資家の夫人に言い寄られて断れなかったとか」

「嘘です」

「そうね、嘘に決まってるわ、私だってそんな話は信用しないわ。でも男ってそういう言い訳をしないと収まらないのね」

「それでコージは諦めて帰ったのですか?」

「そう、次は離婚届を持ってくるって」

「ええっ!」

思わず声を上げてしまった静子は、自分がまだ離婚を望んでいる訳ではないことを知りました。

「嘘、嘘、冗談よ。二三日頭を冷やしなさいって言ったから、週末にでもまた来るでしょ」

「それまでここに居てもいいですか?」

「もちろんよ。主人は明日帰ってくるけど」

「ああ、ご主人が帰って来られるんですね」

「気にしないでいいのよ、あの人もあなたがいれば喜ぶわ」

「でも・・・私もなるべく早く帰りますわ、岡田夫人」

日本に住んでいたのなら実家に帰ると言う便利な手があるのに、ここでは他には行くところもありません。

「静子さん、プロムナードでもぶらぶら歩かない?ドレスでも買えば気分も晴れるわ。そして美味しいものでも食べましょう。ご馳走するわよ」

「でも私、短い出張の予定だったからビジネススーツしか持ってなくて」

「それなら私のを貸してあげるわ。あなたの方が背は高いけれど、サイズは同じ位でしょ」

岡田夫人に借りた薄いグリーンのサブリナパンツは静子の腰にピッタリ合い、黒のタンクトップの上に真っ白のドレスシャツを羽織ると随分気分が晴れてきました。 岡田夫人は綺麗な刺繍の入った薄い色のタイトフィットのジーンズを穿き、濃いピンクのタンクトップに薄いグレーのシャツを重ねておられます。

春先のサンタモニカ・プロムナードは海からの風が心地良く、岡田夫人とまるで姉妹のように並んで歩いているうちに、昨日見たことがまるで悪い夢だったようにも思えてくるのです。

「あなたはレズの経験はあるの?」

突然腕を絡ませてきた岡田夫人に尋ねられて静子は答えに窮してしまいました。

「まあ、あるのね。なかなかやるじゃない、静子さん」

「いえ、でも、経験というほどでは」

岡田夫人と腕を組んで歩きながら静子はケイトとの出来事を話しました。

「まあ、素敵。まるで初恋ね」

「ええ、でも、それっきりなんです」

「でも素質はあるわね、静子さん」

「さあ、どうでしょう」

「私とならどう?」

岡田夫人は急に立ち止まると静子の顔を見ながら言います。

「えっ、そ、そんなこと・・・」

うろたえる静子を岡田夫人が真剣な面持ちで見詰めます。

「冗談よ」

岡田夫人はニッコリ笑うと再び歩き出しました。

「私も何度かあなたのような経験はあるけど、感じなかったわ。私はやっぱり男性がいいみたい、それも年下がね。もちろん浮気の話よ、主人は別」

「岡田夫人も浮気を?」

今度は静子が立ち止まって岡田夫人を見詰めます。

「もちろん。妻も楽しまないと結婚生活は続かないわ。主人も気付いてる筈」

そう言うと岡田夫人は静子の腕を取って再び歩き始めます。

「あっ、そうだ。今度家に彼を呼ぶときに友達も連れて来るように言うからあなたもいらっしゃいよ。ハンサムな金髪の男の子よ。俳優の卵。静子さんはどんなタイプの男性がお好き?」

「いえ、私は浮気なんか」

「そうね、まだ初めてですものね。気にしないで。今の話は忘れて」

貞淑な妻と思っていた岡田夫人が浮気をされているという話は静子にはショックでした。ある意味、コージの浮気よりも衝撃だったかもしれません。昨日パロアルトの家で見た女の姿が岡田夫人と重なります。

ハリウッドヒルの中腹にあるレストランでロサンゼルスの夜景を見下ろしながらディナーを戴いている時も、岡田夫人が金髪の若い男と絡んでいる光景がありありと目に浮かんできて、静子は岡田夫人の顔をまともに見ることが出来ませんでした。

その夜、静子はなかなか寝付けませんでした。ディナーの時にも、そしてシャワーの後にもワインを戴いてほろ酔い気分なのに、いざベッドに入って目を瞑ると岡田夫人と若い男の姿が脳裏に浮かびます。実際には未だ見たことも無い岡田夫人の裸身はとても美しく、その官能的な後姿を静子に向けて夫人は男に跨り、黒髪を振り乱して狂乱の叫びを上げておられるのです。それでも何度か寝返りを打っているうちに静子はやっと安らかな寝息を立てはじめました。


LAX:ロサンゼルス国際空港の通称。 (本文へ


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