エピソード III〜 静子

2.幸福の終焉

戸川との結婚は静子に一層素晴らしい人生をもたらしてくれました。頼りになる上司である戸川のアドバイスで静子の仕事は順調に発展し、同時にプライベートでも戸川という伴侶を得たことで静子の美貌に一層磨きが掛かったようです。 しかも一回り以上も年上だと言うのに、戸川はまるで同世代の男友達のように純粋で一生懸命静子を愛してくれているのがひしひしと伝わってくるのでした。一緒にショッピングに行くと遠慮がちに、「このドレスはどうかな?」と静子に尋ねるのですが、最初はこんな大胆なドレス似合うかしらと思った静子が、試着してみると意外に静子の新しい魅力を引き出してくれたりするのです。

そしてもちろんセックスに関しても静子はすっかり戸川の虜になってしまいました。結婚式の夜に始めて戸川と結ばれた静子は、生まれて始めてオーガズムというものを経験したのです。歯を食い縛り、その隙間から呻き声を漏らしながら戸川に抱き付いて達したのでした。それも、一度ならず、二度も三度も。最後には泣き叫びながら「あなたもイって!」と許しを請い、遂に戸川が静子をがっしりと抱きしめて果てる時には、身体がバラバラになるのではないかと思うほどの凄まじい快感に、目の前が真っ暗になり、身体が宙に浮かぶような気がして必死に戸川にしがみ付いて絶頂を極めたのでした。

女性経験は殆ど無いなんて嘘じゃないかしらと静子は思いましたが、戸川に尋ねても「静子があまりにも素晴らしいから夢中で抱きついているだけだよ」と言うので、静子はそうなのかしらと納得していました。

仕事の関係で出張することが多い二人でしたが、自宅で一緒に過ごす時は必ずゆっくりと時間をかけて愛しあいました。出張先から戸川が帰ってくる時には、必ず電話が掛かってきて、その夜のことを少しだけほのめかすのです。それだけで静子の身体には火が点いてしまい、戸川が家に着く頃には静子は十分高まっているのです。逆に静子が出張先から戻る時は、もちろん静子が電話をするのですが、戸川の声を聞いただけで静子は高 ぶってしまい、家に着いて戸川の姿を見ただけで力が抜けて崩れ落ちそうになり、そのまま戸川に抱かれて寝室へ向かうのです。

こんな幸せな二人の生活も、二年三年と経って二人の仕事が益々順調に発展していくと、次第にすれ違いが多くなってきました。戸川の仕事は次第にバイオテックが中心となり、シリコンバレー以外のサンディエゴや東海岸のボストンへ行くことが増えてきました。一方、静子の仕事は依然としてITが主体で、シリコンバレーに行くことも多かったのですが、テキサスやノースキャロライナ等にも良く出かけるようになり、折角買ったハリウッドの二人の新居で一緒に過ごすことが少なくなってきたのです。

それでも二人とも今の仕事を変えようとは思いませんでした。ベンチャーキャピタリストにとっては今こそがチャンスだし、二人が信頼しあっている限り、プライベートは少し位犠牲にしても大丈夫と確信していたのです。それにシリコンバレーにも戸川の住んでいたコンドミニアムは未だ置いてあったので、二人のスケジュールが会えば、懐かしいコンドで落ち合うこともしばしばでした。

その日も静子はノースキャロライナ州ローリーのベンチャーを訪問し、翌木曜日は 近隣のダーラムへ行く予定でしたが、先方の都合で会議がキャンセルになったのです。

『確かコージは明日はシリコンバレーの筈。夕方にでも合流できるかしら?』

静子は電話を掛けようとしましたが、急に行って驚かせることにし、翌朝のフライトを予約したのです。

次の日の午後、サンノゼ空港に着いてレンタカーを借りていると戸川から電話が掛かってきました。

「今、どこだい?」

「ローリーよ。AB社の会議が終わったところ。今から皆で軽く食事に行くの。あなたは?」

「未だオフィスだ。こっちは未だ午後2時だからね」

「今晩はどうするの?」

「かなり疲れてるから、早い目にパロアルトの家に帰るよ」

「食事は?」

「フリーザーに何かあるだろう。それに、さっきお昼を食べ過ぎたから食欲が無いんだ」

「あまり無理しないでね」

「分かってるよ。シズコも無理しないで。愛してるよ。明日は家に帰るから、思いっきり楽しもう」

「まあ、楽しもうって何を?」

「もちろん、あれだよ」

「うふっ、あれね。愛してるわ、コージ」

レンタカーを借りた静子はまず日本食スーパーに向かいました。サンノゼは日系企業も多くて日本人も沢山住んでいるので、日本食スーパーは結構充実しているのです。

『またTVディナーで済まそうとしているのね。もう若くないんだから』

久しぶりに和食の腕をふるおうと、静子は魚や野菜類を買って車に乗り込みました。

『あらっ、おかしいわね』

コンドに着くと専用の駐車スペースに車が止まっています。レンタカーのようです。

『もしかして、気分が悪くなって早く帰ってきたのかしら?』

静子はスーパーの袋を掴むと急いで階段を駆け上がります。

「コージ?大丈夫?」

ドアを開けましたがリビングには人気はありません。

その時、寝室から呻き声が聞こえました。

「コージ、大丈夫なの?」

静子は小走りに寝室に向かいます。

すると今度は女の呻き声が。それも普通の呻き声ではありません。

『ええっ、女の人が!』

静子は自分がとんでもない事実を目撃しようとしていることに慄き、足がすくんで動けなくなりました。

『まさか!そんな筈は無いわ。きっとコージの声よ』

しかし、そんな静子の淡い期待を粉々に打ち砕くように、一際大きな女の咆哮が寝室のドアを突き抜けて静子を打ちのめしました。そしてそれに合わせるようなコージの呻き声が。

『見てはいけないわ。見ては駄目。見たら終わりよ。ただの浮気なんだから、このまま知らなかったことにして帰るのよ』

母の声が天井から静子に優しく語りかけます。

『でも駄目、私はお母さんじゃない!』

再び大きな女の咆哮が轟くと、静子は全身の力を振り絞って母の願いを振り解くように寝室のドアの前まで進み、大きく息を吸ってからドアノブを掴むと、そのまま大きくドアを開け放ちました。カーテンを閉め切った薄暗い寝室に廊下の明かりがサーっと差し込み、男に跨ってブロンドの髪を振り乱しながら泣き喚いている裸の女の背中を照らし出します。静子の方に向けられた男の両脚、そして女のウエストを掴んでいる両手はまぎれもなくコージです。

女は全く気が付かないようで、狂ったように咆哮を繰り返し、コージもあわせるように呻き声を上げています。静子は女の体を前後に揺すっているコージの両手を見詰め、スーパーの袋を両手に持ったまま立ち尽くしています。

突然コージの両手が止まり、女の動きも止まりました。

「どうしたの?」

女が尋ねます。

コージがゆっくりと体を捻り、女の体の陰から顔を覗かせます。

「シ、シズコ!どうして!」

静子は何も言わずにスーパーの袋をその場に落とすと家から飛び出し、レンタカーに飛び乗るとサンノゼ空港を目指しました。涙がポロポロ流れ、何度も手で拭いながら、ハンドルにしがみ付くようにフリーウエイを飛ばします。

オフィスに電話して秘書のリンダに一番早いロサンゼルス行きの便を取るように頼むと、静子の只ならぬ様子に気付いたリンダが大丈夫かと尋ねます。

「私は大丈夫よ、凄く急いでいるの。取れたら電話を頂戴」

電話を切ると直ぐにまた携帯が鳴りました。コージからです。

静子は無視します。また携帯が鳴ります。今度もコージです。静子は再び無視します。

三度目に携帯が鳴ると、今度はリンダからです。

「サウスウエスト航空の115便が30分後の5時に出ますが、あと10分でゲートまで行けますか?」

幸い夕方のラッシュには早いのでフリーウエイも空いています。

「行けるわ、それを取って頂戴」

「もし間に合わなくても、1時間半後の便に乗れますから」

「大丈夫よ、間に合うわ。ありがとうリンダ」

電話を終えると静子は携帯の電源を切り、アクセルを床まで踏み込みました。

キキーッと音を立ててレンタカー返却所に車を止めると、静子は車から飛び出します。トランクからスーツケースを取り出しながら、「時間が無かったからガソリンは満タンにしてないわ。全部そのカードにチャージして。急いでるの!」と係員に叫ぶと静子はスーツケースを引きながら今にも走り出しそうな勢いでシャトルバスに向かいます。

『あと5分』

シャトルを降りた静子はチェックインカウンターに向かいます。幸い自動発券機は空いていて、直ぐに搭乗券を買うことが出来ましたが、セキュリティー・チェックの行列がかなり長く伸びています。

「サウスウエスト115便に乗るのですが?」

係員に尋ねると、割り込ませてくれました。

「急いで。もう搭乗開始していますよ」

係員は行列のほうを向くと大声で叫びます。

「サウスウエスト115便の方はこちらへ!」

係員が叫びます。

やっとセキュリティ・チェックを終えるとゲートはすぐ目の前です。係員が早く早くと手を振っています。

小走りでゲートに向かおうとすると、後の方でコージの叫ぶ声が聞こえます。

「サウスウエスト115便に乗るんだが、通してくれないか?」

「もう無理ですよ」

「絶対に乗らないと駄目なんだ」

静子は立ち止まって振り返りました。

「無理なものは無理ですよ、ほらあそこがゲートですが、もう誰もいないでしょ?」

「まだ一人いるじゃないか。あっ、家内だ。家内と一緒に行かないと」

静子は慌てて顔を背けるとゲートの方に向きなおり、再び走り出しました。

「待っててくれてありがとう」

静子が通るとゲートのドアがガチャリとしまりました。

そして静子が機内に入ると、すぐに飛行機のドアも閉じられ、静子は早く席に着くように言われました。

『もう大丈夫だわ。でも次の便でコージは追いかけてくる』

間もなく飛行機は離陸し、これからどうしようかと色々思い巡らせているうちに1時間程のフライトは終わり、静子はロサンゼルス国際空港に戻ってきました。

駐車場に止めてあった真っ赤なミヤタに乗り込みましたが、家に帰っても直ぐにコージが戻ってくるでしょう。今は何も話す気になれないし、彼の言い訳も聞きたくありません。

『そうだ、岡田夫人に相談してみよう』

携帯の電源を入れると、留守電がいくつも入っています。どれもコージからです。静子はそれらの留守電を全て消去すると岡田夫人の番号を探し、通話のボタンを押しました。

呼び出し音が鳴っています。

『岡田夫人、お家に居られるといいんだけど』


ローリー:ノースキャロライナ州の州都。 近隣のダーラムやチャペルヒルと共に、リサーチ・トライアングルと呼ばれる研究都市を形成している。 (本文へ


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